p15・16 8 長谷川三止(善正)
<『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック>
内々神社の境内に、すみれ塚という碑と7つの句碑が建てられています。この句碑を建てたのが長谷川三止という人で す。内津の人は、“さんしさん”と親しげに呼びます。この三止という人については『郷土誌かすがい 第24号』に詳しく載っています
本名は善正と言い、内津の人てす。鵜飼源六さんのところにも書きましたが、「金勢丸」や「正生丸」という薬と「手枕」というお茶をつくっ医者でした。裕福な生活だったようで俳句をたしなみ、安永2年(1775年)には、師として仰いでいた横井也有を自宅に招きました。そのとさの様子が也有の紀行文『鶉衣の「内津草」に収められています。三止さんの家屋の母屋を「更幽亭」と言い、内津川の上にかかるようにこしらえた裏座敷を「枕流台」と言ったそうです。也有ここに泊まり、内津川の流れや鹿の嗚さ声を楽しんだのでしようか。
枕流台については、さらに興味深い話があります。明治13年に明治天皇が、山梨・長野・岐阜・愛知と行幸された際にこの内津を通られました。そのときの明治天皇の小休憩所だったところがこの枕流台だったのです。このときの記念碑が、今でも内々神社近くの名跌バスの回転場近くに建っています。ただ、このときの枕流台は、長谷川定七という人に渡っており、行幸のあとに、三止さんから3代目の悦太郎という人が買い戻したのてすが、 4代目の新次郎という人のときに解体・売却されたとのことでした。そして昭和の初め頃までは、少なくとも更幽亭は存在しており、茅葺きだったそうです。今では長谷川家は内津の地を難れていますが、調べたところ6代目の公一郎さんか春日井市の六軒屋町に健在です。
さらに、『春日井の人物』(春日井郷土史研究会)によると、この「枕流台」は岐阜県の坂祝町の岡田さんという方の家に移築されたと書いてあります。そこで坂祝町の役場に電話したところ、古くから坂祝の地て医者をしていたとい う家の方を紹介していたたさました。早速連絡をとって尋ねてみたところ、場所は坂祝町坂倉で、今は中学校の教師をしているという岡田健司さんのお宅でした。何でも健司さんの4代前の与平さんという方が、春日井から買ってきて、まずは娘の家として御嵩町伏見に移築したそうです。そのあと、東京から疎開してきた医者の息子のために、昭和25年頃、この枕流台を今の坂祝に移築してきたということでした。健司さんの祖母はさとという方であり、その方のお話によると、買ってさた先の家は長谷川という家で、その家の公一郎さんという方といまだに年賀状のやりとりをしていると言ってみえました。どうやら枕流台で間違いなさそうてす。